「報道人としての自分」と「被害者の家族としての自分」

長崎・佐世保の小6女児殺害:もうすぐ1カ月、御手洗恭二さんが手記

怜美の思い出が詰まった今の家は、多くの同僚が取材で走り回る拠点でもあります。

ちょっとこの言葉にぐっときた。というか泣きそうになった。御手洗氏の手記は「報道人としての公私の公である自分」と、「殺された娘を持つ公私の私である自分」のせめぎあいを見ているようだ。(ちなみに3階に自宅があり、2階が毎日新聞の支局のようだ)
こんな記事もある。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040617/mng_____tokuho__000.shtml
事件直後の会見を見て、本来取材する立場の人間がされる側になってしまった場合の悲哀というかなんというか、「記者会見をしなければならない!」という意思のようなものがものすごくものすごく伝わってきて、ああ、この人は報道人なのだなあ、と思ったのだが、それにしてもつらい。
大阪池田小学校の事件時に、小学生にマイクを向けるマスコミの姿に世間では批判が巻き起こったのだが、私は私が同じ立場であったら、きっと小学生にマイクを向けてしまうと思うと日記に書いた記憶がある。
まあ私は「報道? なにそれー? えへー」という糞ライターなのだが、「知りたい」という欲求がものすごく強く、その上で人が知りたいと思っていることを調べたくなるが、それが身内のことであった場合どうなっちゃうんだろうとか考えたが、結論は出なかった。これってすごく難しい問題だ。